白花ネムロコザクラ
次々と咲いていた庭の花も終わり、サザンカとツバキが冷たい光をひとり占めにして咲き継いでいるのを窓越しに眺めながら、来春の種まきのことなどを考えては、心を遊ばせていると、いろいろなことが思い出されてきます。
私の園芸への入り口は、亡き叔父から次々と、いろいろな花を戴き、戴いた花を、夢中で育ててきた年月で、もう30年も過ぎるかと思われます。
園芸にも時々の流行のようなものがあり、それにいち早く便乗して育てていた叔父は、本当に花追い人だったのでしょう。
ダリア、グラジオラスなどの球根類から始まり、皐月、盆栽、蘭、山野草とあまり広くもない庭にあらゆるものを育てては増やし、人に分けてあげるのを何よりの楽しみにしていたようで、私もその恩恵にあずかっていた一人でした。
ある日、留守の家を訪ねてしまったことがあり、手持ちぶたさに山野草の鉢を数えてみたところ、千鉢を超える数に数えるのを止めてしまったことなども思い返され、花への執着をいまさらながら思い返しています。
定年前もそれなりに育ててはいたが、定年後は山野草会を作り、市の山野草会の中心的な立場になって、山野草の好きな人の面倒を見るようにもなっていました。
山野草の専門のお店で買い集め、通信販売では、北海道の方からも、取り寄せていたようで、珍しいものもたくさん育てており、試行錯誤のせいからか、育てるためには、まず花の生態環境を知ることが大切と、会のメンバーを、花時の山に連れて行ったりもしていたようでした。
また花の写真にも懲り、家中に高山植物の写真が飾ってありました。最初はあまり上手とは思えなかった写真も、年月とともに美しくなり、私もねだって何枚か分けてもらっています。
一番好きだったのは北海道の大雪山だったらしく、天候を見計らって急に行くため飛行機の座席が取れず、夜行列車で行ってきた、などという話をしていたのも聞いたことがあります。
その叔父が、定年から10年あまりで病気になってしまい、徐々に動くことさえままならなくなり、庭に咲く花を見ることさえも出来なくなってしまいました。
そのころ私は遠くに住んでいたのだが、春も真近かとなったある日、野草を植える土を買いたいので来てほしいと言う電話があり、少しは良くなったのかと思い行ってみると、動けない身ながら春の植え替えに心を配り、心はいつも山野草の上にあるようでした。
見ることが出来なくとも、頭の中に山野草の姿はやきついており、何々の花がどうなっているから植え替えてほしいとか、まるで山野草の声が聞こえているようで、言われるなりに3月と5月の連休には、植え替えを手伝ってきました。
そして5月の連休の半ばに入院、1997年5月19日には帰らぬ人となってしまいました。
どんなに体がきついときも花を追い求めた叔父は、山野草の花の咲き継ぐなかを花に見守られて、旅立ってしまいました。花が好きで、人が大好きだった叔父の葬式には、辞めてから10年以上も経つ職場の人や、学校時代の友達、山野草会の人たちの長い焼香の列が出来ていました。
2002.12.14 記